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浦和地方裁判所川越支部 昭和63年(わ)109号 判決

主文

被告人を懲役三年に処する。

未決勾留日数中二〇〇日を右刑に算入する。

この裁判確定の日から五年間右刑の執行を猶予し、その猶予の期間中被告人を保護観察に付する。

理由

(犯行に至る経緯)

被告人は、父甲、母乙の長男・一子として出生・成育し、埼玉県狭山市内の小・中学校を卒業後、立教高等学校、立教大学へと進学し、昭和六一年三月同大学を卒業後、同年一二月ころまで株式会社リクルートでアルバイトをし、その後は公務員採用試験の受験準備をし、翌昭和六二年一一月入間市役所職員採用試験を受験してこれに合格した。

被告人は、翌昭和六三年四月一日付けで同市役所職員に採用され、同日同市役所に初出勤して、入所式や説明会への出席、関係部署への挨拶、新規採用等に伴う必要書類の作成提出等を済ませた後、午後三時ころから、所属部署である福祉部福祉課において身辺整理等をしていたが、退庁時の午後五時ころ、たまたま被告人の小・中学生当時の同級生丙の里親で、同課福祉係主事のA(当時四八歳)から、「あなた、うちの娘の丙と同級生よね。頑張ってね。」などと言われて花束を贈られた際、とっさに丙のことを想起できず、不得要領なまま花束を受け取ったが、帰宅途中同女のことを想起したため、この際A方を訪問して改めて挨拶しようと考えた。

(罪となるべき事実)

被告人は、同日午後六時三〇分過ぎころ、埼玉県狭山市〈住所略〉所在のA方を訪れたところ、案に相違して同人から、市役所での態度と打って変わった冷淡とも思われる態度で応対された上、「やっと思い出したのね。あんた、うちの丙にちょっかい出したことあるでしょう。あんたみたいな女好きがよく市役所に入れたわね。これからやっていけるの。仕事よりも役所の中で女の子を見つけに来たんでしょう。」というような言葉を掛けられたため、突然殺意を抱き、付近にあった電気掃除機のコードをAの頚部に数回巻き付けて強く締め付け、よって、即時、同所において、同女を絞頸により窒息死させて殺害したが、本件犯行時、側頭葉てんかんによるもうろう状態のため心神耗弱の状態にあったものである。

(証拠の標目)〈省略〉

なお、本件犯行態様について、検察官は「殺意をもって被害者をその場に仰向けに押し倒してその頚部を両手で締め付け、更に判示行為に及んだ」と主張するので、右扼頚行為の存否について若干触れることとする。

なるほど、被告人作成の上申書、被告人の検察官(同年四月四日付け、同月二三日付け)及び司法警察員(同月五日付け二通、同月一〇月付け、同月一三日付け)に対する供述調書にはいずれも検察官の右主張に沿う記載部分があり、また、前掲井出一三の供述調書、同月二日付け捜査報告書、同月五日付け実況見分調書によれば、被害者の死体には扼頚があることの可能性を示す下顎部周辺の皮膚変色及び舌骨上筋群の出血が認められる。

しかしながら、被告人の右各供述部分は、それ自体微妙に変遷している上、本件犯行時における判示精神状態等にも徴すると、被告人自身の記憶に基づいてたものであるのか疑いなしとせず、また、右損傷から直ちに検察官主張の扼頚を推認することもできない。

以上により、判示事実の限度で認定した次第である。

(被告人の責任能力について)

一  弁護人は、被告人が本件犯行時、側頭葉てんかんに由来するてんかん発作及びその後のもうろう状態のため、心神喪失の状態にあったと主張するので、この点について判断する。

二  本件犯行時及びその直後の被告人の行動等の状況についてみると、前掲各証拠によれば、被告人は、被害者から判示言動を受けた後、付近にあった電気掃除機のコードを引き寄せ、これを被害者の頚部に数回巻き付けて絞殺したこと、その後、玄関のドアの鍵を閉め、頚部にコードが巻き付いた状態の被害者を玄関横のトイレ内に引きずり込んだこと、そのころ、同家二階にいた被害者の養子Bが階下の異変に気付き、二階のベランダから手すりを伝わって下に降り、外から玄関のドアを開けようとしたり、ブザーを鳴らしたりしたが被告人はこれに全く反応を示さず、その後、先に、脱いだ自分の靴を履き、先に玄関横の下駄箱の上に置いた封筒を取り、ドアの鍵を開け、ノブを回して玄関の外に出たこと、その際、掛けていた眼鏡を外してポケットの中に入れたこと、玄関の外に出ると、Bから左手首を掴まれて「何やってんだ。」と言われたため、「丙さんを訪ねてきたんです。」と答え、Bから名前を聞かれると、「よしおかたもつです。」と答え、Bに手首を引っ張られて「うちに入れよ。」と怒鳴られると、「大学のコンパがあるんです。急いでいるんです。離して下さい。」と言って、Bの手を振り切ってその場を立ち去ったこと、以上の事実が認められるところ、第二回及び第三回各公判調書中の被告人の供述部分によれば、被告人は被害者から判示言動を受けて、目の前が真っ暗となり、それ以後の記憶のほとんどを有していないとされ、その供述内容は、次の鑑定結果にも照らし、信用することができるのである。

三  鑑定人小林義昭作成の鑑定書とこれを補足説明する同人の当公判廷における供述及び同人作成の意見書と題する書面によれば、同鑑定人のした鑑定内容の要旨は次のとおりである。

1  被告人の家族歴、生活歴、てんかん発作によるとみられる過去の異常体験及び性格傾向等を詳細に検討し、被告人の脳波や抗てんかん薬投与に対する脳波反応を調べた結果、被告人は本件犯行時側頭葉てんかんに罹患していたものと診断される。

2  被告人が本件犯行時の記憶の大部分を有していないこと、被告人の本件犯行の態様やその直後の行動が被告人の生活歴、知能及び性格と対比して不相応であること、被告人が犯行当日発作を起こしやすい精神状態にあり、被害者の判示言動が発作を誘発したとみられることなどからみて、被告人は本件犯行直前にてんかん発作を起こしたと考えられる。そして、付近にあった電気掃除機のコードを引き寄せ、これを被害者の頚部に数回巻き付けて絞殺した時点では、発作中ではできない合目的で複雑な行動をしていることから、発作後もうろう状態であって心神耗弱状態にあったと判断される。その後の被告人の行動は、もうろう状態であったものの、より合目的かつ複雑な行動をしており、時間の経過とともに、意識障害の程度が軽くなって行き、被害者方の玄関を出た後は責任能力は完全に回復していた(ただし、この時点以降の記憶も有しておらず、偽性発作後もうろう状態にあったと考えられる。)ものと思われる。

四  右鑑定内容は十分首肯でき、被告人の本件犯行時及びその直後の行動等の状況にも照らし、被告人は、被害者を絞殺した時点で、てんかん発作後もうろう状態にあったが、是非善悪を弁別し、これに従って行動する能力を完全に喪失していたとまではいうことができず、その能力が著しく減弱した心神耗弱状態にあったと認めるのが相当である。

五  以上の次第により、弁護人の主張は採用できない。

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法一九九条に該当するところ、所定刑中有期懲役刑を選択し、右は心神耗弱者の行為であるから同法三九条二項、六八条三号により法律上の減軽をし、その減軽をした刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中二〇〇日を右刑に算入することとし、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判確定の日から五年間右刑の執行を猶予し、なお同法二五条の二第一項前段を適用して被告人を右猶予の期間中保護観察に付し、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。

(量刑の理由)

本件犯行は、入間市役所職員に採用され、同市役所に初出勤した被告人が、自己を祝福し花束まで贈呈してくれた上司である被害者を、判示経緯から帰宅途中訪問したところ、被害者から判示言動を受け、これにより側頭葉にてんかん発作を起こし、突然殺意を抱き、付近にあった電気掃除機のコードを被害者の頚部に数回巻き付けて強く締め付けて絞殺したという事案であって、その態様及び結果の重大性等に照らし、被告人には強い非難が浴びせられるべきことはいうまでもない。

被害者は、約二〇年もの長い間、入間市役所の職員として福祉行政に携わり、仕事熱心で責任感が強く、同僚や上司からも信頼されていたものであり、家庭にあっては、実子に恵まれなかったことから、夫と共に前記丙、Bを里親、養親として育て、犯行当時は、夫、B夫婦や孫と共に幸福な生活を送っていたものであるところ、犯行当日、新入職員の被告人が丙の小・中学生当時の同級生であったことから、親しみを感じ特に花束まで贈呈して入所を祝福したのに、その善意が逆に仇となり、自らの安らぎの場所である自宅において、被告人の凶手により生命を絶たれたものであって、犯行時に味わった被害者の苦痛、恐怖の念、生命を絶たれた無念さ、そして遺族の悲嘆の深さは、計り知れないものであることもいうまでもない。

しかしながら、被告人は、以前から自己に精神異常の兆候があることを思い悩んでいたものの、その原因が分からないまま入間市役所に初出勤し、その日に、たまたま判示経緯から被害者方を訪れた際、被害者から判示言動を受け、突然てんかん発作を起こし、日頃の被告人の人格からは想像もできない、深層の残虐性を帯びた心理が一気に爆発露呈したものであって、てんかん発作を起こしたこと自体被告人を責めることができないものである上、てんかん発作後もうろう状態でされた本件犯行時の責任能力は心神耗弱の状態にあったとみられるものの、その程度は心神喪失とは紙一重の著しく重い状態にあったと考えられるのである。そして、このような責任能力の程度の外、被告人の実父において、家庭の住居していた土地家屋を他に売却しこれにより被害者の遺族に二二〇〇万円を支払って示談をしていること、被告人は、すでに二年八か月以上も勾留されている上、勾留中もてんかんに由来する頭痛に苦しみ薬を飲んでこれを抑えている状態にあること、被告人は改悛の情が顕著であり、家族と共に被害者の冥福を祈り、これからもまた祈り続けて行くことを望んでいること、被告人はこれまでに前科前歴の全くない勤勉で優秀な青年であったものであり、今後はてんかんの専門的治療を受けた後、社会に役立つことをして罪の償いをして行くことを望んでいることなどの事情も認められる。

そこで当裁判所は、右の諸事情を総合考慮した上、判示犯行にもかかわらず、被告人に対し五年間刑の執行を猶予し、併せて保護観察に付し、社会においててんかんの専門的治療を十分受けさせ、完治の上更生させるのが相当であると思料する次第である。

よって、主文のとおり判決する(求刑懲役七年)。

(裁判長裁判官 村重慶一 裁判官 金野俊男 裁判官 飯塚圭一)

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